フェスタ、という可能性
「フェスタ」つまり、祭り。
それが持つ大きな意義は、「様々な人達がごちゃまぜであること」でしょう。ごちゃまぜ、というのが本当にポイントで、
それが「普段出会わない人たち」を出会わせ、「普段起こらないこと」を生じさせる。
そして一つ重要なことがあって。「フェスタ」「祭り」が影響力を発揮するのは、フェスタ当日以降の話だと思っているのです。
それはつまり、フェスタという共通のイベントに参加した人間同士で一つのコミュニティができて、何かしらのプロジェクトがスタートする、だとか。
それはつまり、フェスタで同じ意識を持つ人間に触れ、負けちゃいられないな、と意欲がかきたてられるだとか、勇気づけられるだとか。
様々な形で、フェスタというのは、「終わった後」に影響力を持つのです。出会わなかったであろう人たちに、
「フェスタ」という共通の過去を作ること。それが僕たち運営側が目指すところであり、「フェスタ」がもつ可能性です。
教育という限界
まあでも、先述のフェスタ説明ですと、別に「教育」じゃなくてもいいじゃねえか、とツッコミが来そうですね。
なるほど確かに、「政治フェスタ」でもいいかもしれないし、「警察フェスタ」「マグロフェスタ」「ドリルフェスタ」なんでもありそうなものです。
しかし、そこで「教育」を選ぶのにはわけがあります。
教育というのはその本質上、受け手は常に子供で、送り手は常に大人です。
さらに、教育を施す教員の側は、「自分が受けた教育」にとらわれてしまいがちです。
これが、教育の持つ一つの限界です。
時代に追い付くことが難しい。
…つまり、「教育」というのは、常に一世代前のことをやっている、なんてことになってしまいがちなのです。
その点、僕ら大学生は、「まだ教育を受ける側」であると同時に、「もうすぐ教育を施す側になりうる」人間です。ゆえに、「送り手と受け手の時差」を埋めることができうる、唯一の年代だと思うのです。
だから、大学生から「教育」にアプローチしていくことは、日本社会の向上を目指すうえでは非常に有効であると考え、僕たちは日夜試行錯誤しているのです。